会社概要

【商 号】 株式会社 八木長商店
【代表者】 八木亮介
【所在地】 〒160-0023 東京都新宿区西新宿3丁目14-6
【T E L】 03-3377-6141
【F A X】 03-3378-5978
【創 業】 大正6年
【会社設立】 昭和26(1951)年5月25日
【資本金】 1千万円
【事業内容】 ハンドバッグ製造及び卸し、皮革製品・小物全般輸入卸販売
【販売先】 全国ハンドバッグ・カバン専門店、百貨店、ブティック等
【取引銀行】 みずほ銀行新宿西口支店、三井住友銀行新宿西口支店

アクセス

最寄りの駅は、京王新線「初台」~甲州街道沿いを新宿方向へ、西参道口交差点の手前「ライオンズマンション西新宿」角を左へ100m。新宿駅JR「南口」~甲州街道沿いを八王子方向へ、西参道口交差点の「東京スタイル営業センター」先1本目を右へ100m。(所要時間徒歩10~15分)、新宿駅より京王バス「新宿循環」で西参道口停留所下車も便利。
(※ご注意)弊社はショップではないので小売販売はしておりません。


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八木長の歴史

明治 八木長登場 大正  八木長東京進出 昭和20年代 八木長「サマーケース」生産間に合わず
昭和50年代 八木長イタリア輸入開始 平成 本皮ブーム、八木長販売先拡大。

世界の流れ 日本のカバン産業 八木長の歴史
明治14年(1881)   8代八木長右衛門が第2会内国勧業博覧会に2尺3入子、3本革バンド締めの「行李鞄」を創作出品。  
明治21年(1889) 大日本帝国憲法発布    
明治27年(1894) 日清戦争    
明治33年(1900)    パリ万国博覧会に八木長右衛門考案「行李鞄」をはじめ多数の豊岡製品を出品。
明治35年(1902)   第5回内国勧業博覧会出典目録には遠藤嘉吉朗の「旅行鞄」が見られる。  
明治37年(1904)      
明治39年(1906)   服部清三郎の「鞄型柳行李」、創案。  
明治42年(1909)   宇川安蔵のドイツ製品を模倣した「バスケット籠」等の創案。
バスケット籠
 
大正6年(1917)     兵庫県豊岡市より東京に移転後、千代田区隼町において「八木長右衛門商店」として主に、杞柳製品の販売を開始。
大正10年(1921)   松本孝のバスケット型柳行李鞄が出現。  
大正12年(1923) 関東大震災    
大正15年(1926)     8代長右衛門死去。9代八木長右衛門が事業を引き継ぐ。
昭和3年(1928)頃 NHKラジオ体操開始 ファイバー鞄が商品化される。 このころ店舗を四谷見附付近に移転。
昭和6年(1931)頃 満州事変勃発 昭和5年には、ファイバー職人11名。  
昭和11年(1936) 226事件
ベルリンオリンピック
オリンピックの選手団のかばんとして、豊岡のファイバー鞄が採用。 226事件。隼町の住居付近に鎮圧部隊展開。
昭和12年(1937) 日中戦争   新宿区四谷3丁目に移転。
昭和13年(1938)   組合員60名、月産約八万個に達し杞柳製品の全国的な販売網に乗って販売されていった。 順調に売り上げ拡大。靴、学童用品、鞄、旅行具などを取り扱う。
昭和14年(1939) 第二次世界大戦    
昭和16年(1941) 太平洋戦争に突入 月産15万個に至りピーク。  
昭和18年(1943)   材料の確保が困難、月産10万個を割る。 戦時中、企業整備のため解散。
昭和20年(1945) アメリカ軍,沖縄本島上陸、広島・長崎に原爆投下太平洋戦争終わる    
昭和22年(1947) 日本国憲法の公布    
昭和24年(1949) 湯川秀樹 ノーベル物理学賞受賞 このころ創案されたラッカー吹付塗装の「サマーケース」が大流行。軍用行李が警察予備隊員の衣類運搬用として使われた。 墨田区石原町において、旅行具等の卸売業務再開。
昭和25年(1950) 朝鮮戦争はじまる    
昭和26年(1951)   再び杞柳製品がファイバー鞄を圧倒。朝鮮動乱後の不況、金融引締めによる資金難などにより大打撃を受ける。  
昭和27年(1952)頃   東京でマニラから持ち帰ったかばんを参考にして「スマートケース」を考案。
「スマートケース」は、映画「君の名は」で岸恵子が持ち、大流行した。
現、株式会社八木長商店を設立。靴の卸を追加。新宿区四谷三丁目の戦前の場所に復帰。「サマーケース」のミニサイズ「ミニバス」と呼ばれたバスケット籠が一家に一つの大流行、自社でカラフルなラッカ―塗装をし、生産間に合わず。
昭和28年(1953) NHKがテレビ放送を開始 従来のスーツケースの胴枠を改造し、外型崩れ防止にピアノ線を使用したかばんが生まれる。これまでの欠陥を補っていたので他商品を圧倒。  
昭和29年(1954)頃   このころからミシン加工による縫製技術が導入。  
昭和32年(1957)頃 ソ連スプートニク1号打上成功 初の人工衛星    
昭和33年(1958) 岩戸景気   9代長右衛門死去。代表取締役に八木健之介が就任。靴の製造を開始。
昭和35年(1960) NHKがカラー放送を開始 鞄産業、工業数約2倍、生産高約8倍に躍進した。5月、輸出用かばんの品質管理のため、財団法人ゴム製品検査協会兵庫検査所豊岡支所を設置し、輸出向けビニール鞄の検査を行い、品質向上に務めた。  
昭和38年(1963)頃 アメリカ大統領ケネディ暗殺される   新宿区角筈三丁目-189(現在地)に移転、皮革衣料、バッグ、ベルトを追加。小売部として、阿佐ヶ谷にアルプス靴店を出店。
昭和39年(1964)頃 第18回オリンピック東京大会の開催 昭和39年頃になると、蓋に2本、底に1本ファスナーがあり、容量に応じて3通りの厚みに調整できる、通勤及び旅行かばん「エレガントケース」が作られ、大量生産、大量販売された。  
昭和43年(1968)   かばんの輸出が最盛期までに年率50%の近い飛躍的な伸びを示しす。 小売部門の閉鎖を決定。製造卸部門に注力、革衣料の卸が好調。
昭和44年(1969) アポロ11号 人類初の月面着陸    
昭和46年(1970) オイルショック オイルショックの影響で、輸出は激減。しかし原材料を塩化ビニールから布はく類へ。販売先を国内需要切り替え危機を脱した。  
昭和51年(1976) ロッキード事件の表面化    
昭和55年(1980)     イタリアからバッグの輸入を開始。その後、イタリア「マリアネッリ社」と、輸入代理店契約を結ぶ。
昭和58年(1983) おしんブーム    
昭和60年(1985)     ハンドバッグの小売向け卸業務を拡大。自社ブランド「リズペル」、「ロゼリナ」の商標を登録。オリジナルバッグの製造を本格化。
平成元年(1989)     本革リュックサックブームにより、急速に販売先を拡大。
平成5年(1993)     中国製品の輸入を本格化。OEMによる、自社企画製品の輸入に注力。
平成10年(1998)     イタリアの材料を使った中国製品が一般化。好調な販売を維持。
平成19年(2007)     4月に代表取締役交代、前代表長男の八木亮介が就任。
豊岡カバンの歴史参考リンク先
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